キングオブレゲエ!Bob Marley
Quiiverでは Musicのカテゴリーを設けています。
これまではハワイアン、レゲエ、ラテンを中心に紹介してきていますが
レゲエといえばこの大御所を紹介しなくては!
と思い本日はキングオブレゲエの
ボブ・マーリー
についてを書いていきたいと思います。
レゲエの先駆者でもあるボブ・マーリーですが36年間という短い人生の中で
彼が残したものというものは計り知れません。
滑らかで独特な歌声と宗教的・社会的な作詞スタイルで知られ、10年以上にわたるポピュラーカルチャーの世界的な人物としての活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献しました(以下Wikipediaより抜粋しています)
ボブ・マーリーはジャマイカ出身です。
ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人の父と、アフリカ系ジャマイカ人の母の間に生まれました。
ボブを産んですぐに離婚をしてしまったのですが、10歳で父が死去してしまうと
それまでの生活は一変し、一族はキングストン郊外のスラム街へと移り住みました。余談ですが、この頃手相を見るのが得意だったそうです。
そこで後にザ・ウェイラーズを結成する事となるバニー・ウェイラー(本名ネヴァル・リヴィングストン)と出会います。
ラジオから聞くR&Bやスカなどの影響から音楽への探求を深めた少年期。
後に2人は近所の無料音楽教室にて音楽的指導とラスタファリ運動指導を受ける様になります。
ラスタファリ運動
ラスタファリ運動またはラスタファリアニズム は、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動である。 ラスタファリ運動の実践者は「ラスタファリアン」、または「ラスタピープル」、「ラスタパーソン」、もしくは単に「ラスタ」と呼ぶ。
Wikipediaより
ウェイラーズの最初のリード・ボーカルはブレスエイトでしたが、彼が家庭の事情で引っ越してしまった為この当時の音楽プロデューサーコクソン・ドッドの勧めもありボブがリードボーカルに変わりました。
この曲は1964年初頭にヒットチャート1位を獲得しました。
今でこそ、その名の知らぬ人はいない程に浸透している彼ですが非常に苦労人です。
裕福な父を持つ彼ですが、父親が亡くなってからは差別にも遭い路上生活などもしました。
音楽活動もしながらも低迷期は皿洗いなどのアルバイトなどもしております。
そんな彼だからこそ彼の発する言葉、音楽にはとてつもないパワーがあり人々の心を掴んで離しません。
彼の残した名言は今なお私たちへの気づきがあります。
好きな言葉は沢山ありますが
ー指をさして人を非難する前に、君のその手がよごれていないか確かめてくれ。ー
ーひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ。ー
は今のコロナ渦中にいる私達に気づきを与えてくれるのではないでしょうか?
1974年、エリック・クラプトンが ”I Shot The Sheriff” をカバーするとこちらが全米1位になりたちまちボブの名が世界に知れ渡りました。
そして数々の名曲を残しています。
力強いソウルのこもったライブですね。
泣かないで、大丈夫だからと歌詞に込められた想いに勇気を貰います。
何かが始まったら必ず終わりがあるんだ。
一つの愛、一つの心。
ボブが歌うからこその胸にガシと響く歌詞です。
1976年には、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、ボブは胸と腕を撃たれました。
二日後、コンサートに出演。約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開くことを二か月半前に決めたとき、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった彼のポテンシャルは計り知れません。
その翌年には、ツアー中に親指を痛め医師にメラノーマと診断されましたがこの時の処置を宗教的な理由から拒否。
それでもなおツアーを続行し彼はメッセージを届け続けました。
1980年に脳腫瘍が発見され様々な療法を試すも回復せず、1981年5月11日、ボブ・マーリーは母のいるマイアミの病院で36年の生涯を閉じました。
音楽だけではなく、その生き様から書籍や名言など数多くのものを残したボブ・マーリー。
今後もQuiiverでは彼の記事を書いていきたいと思います。